Masuk夜会は、なお華やぎの最中にあった。
水晶のシャンデリアは幾千もの光を降らせ、円舞曲は絶えることなく大広間を満たし、色とりどりの衣装をまとった華族たちは、春の終わりに咲き誇る花々のように笑みを交わしている。 その輪の中にありながら、
家臣たちは皆、今夜こそ朔が伴侶を決めるものと期待している。
朔自身も、それを拒むつもりはなかった。 愛などなくとも構わない。 家のためなら結婚くらい受け入れる。 そう割り切って、この場へ足を運んだのである。しかし――。
誰一人として、彼が心を動かされる女はいなかった。 香水を重ねた令嬢。朔は人の顔より先に香りを覚える。
香りは偽れない。 怒りも。 嫉妬も。 恐怖も。 欲望も。 戦場では、それだけを頼りに幾度も生死を分けてきた。 だからこそ、磨き上げられた笑顔の奥に隠された打算や虚飾が、香りとなって鼻を
(……違う)
誰でもいいはずだった。
それでも、ここには彼が求めるものはなかった。いつしか朔は、大広間を離れていた。
夜風でも浴びようと庭へ出た、その時だった。ふと、頭上から絹の裂けるような風音がした。
見上げると、薄紫の袖が、散りゆく桜とともに夜空を舞っていた。人影。
女だ。 考えるよりも先に身体が動く。 地を蹴り、腕を伸ばし、その身体を抱き止める。衝撃が腕へ伝わる。
落下の勢いを殺すように強く抱き寄せると、その瞬間、世界から音が消えた。
春の夜気を裂いて、一筋の香りだけが朔の胸へ流れ込んでくる。甘くもなく。
胸の奥が、不意にざわめいた。
あの夜、一度だけ出会い、跡形もなく姿を消した女。 それ以来、どれほど人混みを歩いても、どれほど香りを聞き分けても、二度と巡り会えなかった運命の香。 腕の中の女から漂う気配は、その面影を思わせるほどによく似ていた。だが――。
朔は抱き留めたまま、白い首筋へ静かに目を落とした。 もし本当にあの夜の女ならば、そこには自ら刻んだしかし、彼女の細く白い首筋には、印の痕跡は見当たらなかった。
念のため、指先でそっと確かめる。 滑らかな肌だけが、静かに指先へ触れた。(……違うか)
胸の奥を、小さな落胆が掠める。
あの夜、自分の理性を奪った女は、まだ見つかっていない。
運命などというものを信じたことはなかった。 それでも、あの一夜以来、その香りだけは忘れられずにいる。 香りだけを頼りに探し続けてきたというのに、また見当違いだったらしい。 静かな失望を胸へ沈めた、その時だった。「ひ、人が落ちたぞ……!」
「例の誰かの悲鳴が庭へ響き、静寂は一瞬で破られる。
桐生家――。
その名に、朔は初めて腕の中の娘へ視線を戻した。桐生家といえば、旧華族でも指折りの名門。
そして社交界では、生まれつき(……この娘が)
夜会の客たちが次々と庭へ駆け寄り、人垣が幾重にも広がっていく。
しかし、人々の足は途中で止まった。 朔の姿を認めたからだ。 人垣は誰に命じられるでもなく左右へ割れ、庭園には軍の黒の軍服。
肩章に輝く将官の星。 胸元へ整然と並ぶ勲章。 そして、軍に連なる者なら誰もが知る黒銀の家紋。「あれは……」
「軍人たちは反射的に姿勢を正し、華族たちは息を呑む。
帝都で彼の名を知らぬ者はいない。 戦場では敵軍から鬼と恐れられ、政界では若くして政府中枢へ食い込んだ軍閥の当主。 その男が、一人の令嬢を抱きかかえて立っている。 誰も、その意味を理解できなかった。◇ ◇ ◇
――温かい。
それが、 麗香はゆっくりと
あの夜の男性は、深く外套のフードを被っていた。
月明かりの下で見えたのは、輪郭だけ。 契りを交わしたその最中にさえ、一度もその素顔をはっきりと見ることはできなかった。 だから、この人があの夜の彼なのかどうかは分からない。それでも。
微かに漂う(……まさか)
一瞬だけ、その言葉が胸をよぎる。
けれど、すぐに麗香は心の中で小さく首を振った。(そんなはずはない)
顔も知らない。
名も知らない。 あの夜の出来事さえ、夢のように曖昧なのだ。 ただ、本能だけが、この人へ手を伸ばしたいと囁いている。 その声へ耳を貸してしまえば、きっとまた同じ過ちを繰り返す。(駄目……)
男は怖い。
信じた婚約者は裏切った。 名も知らぬ男へ身を委ねた結果、その男も結局は自分を置き去りにした。もう二度と、本能のまま誰かを信じてはいけない。
そう自らへ言い聞かせるように、麗香は反射的にその腕から身を離した。その様子を見ていた珠緒が、二階の欄干から悲鳴にも似た声を張り上げる。
「皆様、ご覧の通りですわ!」
庭中の視線が一斉に珠緒へ集まる。
その瞳には涙が浮かび、今にも崩れ落ちそうなほど痛ましい表情を浮かべていた。「お姉様は、生き延びるためなら殿方を誘惑することさえ
その言葉に、たちまちざわめきが走った。
「やはり……」
「そんな囁きが、春風より早く庭を駆け巡る。
慎太郎も人垣をかき分けて現れた。 しかし麗香へ手を差し伸べることはなく、苦しげに目を伏せている。「麗香……どうして、そこまでして」
その声音には失望こそあれ、守ろうとする意思はなかった。
麗香は、その言葉を静かに聞いていた。
かつては、彼の声一つで胸が満たされた。 優しく名を呼ばれるだけで、どんな冷たい視線にも耐えてこられた。けれど今、その声はどこまでも遠い。
春風に乗って聞こえる、名も知らぬ誰かの言葉ほどにも、胸へ届かなかった。(……本当に、もう終わったのですね)
悲しみより先に、静かな諦めだけが胸へ降り積もっていく。
やがて、自然に割れた人並みの中を、父、
「桐生家の名をここまで汚した以上、もはや情けはかけられん」
春風が吹き抜ける。
散った桜が足元を流れていく。 和馬は静かに使用人へ視線を向けた。「連れて行け」
背後の使用人たちが動く。
「今夜のうちに処分する」
麗香は静かに目を伏せた。
もう抵抗する力も残っていない。その時だった。
「……誰が」
低く、夜気を凍らせるような声が響く。
桐生の使用人たちの足が止まる。 麗香を抱き止めた男が、彼女を背へ庇うように一歩前へ出た。「誰が、俺の女に触れていいと言った?」
その黒い瞳は、桐生家の者たちだけを静かに見据えていた。
九条家の客間には、朝から重苦しい沈黙が漂っていた。 窓辺の花瓶には白百合が活けられ、銀の茶器が柔らかな日差しを受けて輝いている。 けれど、珠緒には、そのどれもが癪に障るもののように思えた。「……お姉様に、お会いになったのですって?」 向かいに座る慎太郎へ、努めて穏やかな声で尋ねる。「ああ。昨夜の夜会でね」「御影少将と、ご一緒だったのですよね」「そうだよ。夫婦で出席していた」「お姉様、お元気そうでした?」「……そうだね。随分、変わったように見えたよ」 華族会館の慈善夜会には、珠緒も出席するつもりでいた。しかし数日前から体調が優れず、慎太郎だけを送り出したのである。「変わった、ですか?」「以前より、明るくなったというか……堂々としていた。御影少将とも、上手くやっているらしい」 その一言が、珠緒の胸を刺した。「まあ。それは何よりですわ。私、お姉様が御影家でお幸せに暮らしていらっしゃるなら、本当に嬉しく思いますもの」「……ああ」 慎太郎は頷いたが、何かを考え込んでいる様子だった。「慎太郎様? 何か、気になることでもございますの?」「いや……御影少将に、少し妙なことを言われてね」「妙なこと?」「君との婚約は順調か、と。そのあとに、婚約者のことをよく見てやれと言われたんだ」 珠緒の指先が、ぴくりと動いた。 御影朔。 あの男は、いったい何を知っているのだろう。 これまで麗香へ仕掛けてきたことの幾つかは、御影家にも疑われているはずだった。けれど、確かな証拠など残していない。少なくとも、珠緒はそう信じていた。「……お姉様が、何かおっしゃったのでしょうか」「麗香が?」「ええ。私のことを、悪く…&hellip
華族会館の大広間に、最後の円舞曲が流れ始めていた。 幾重にも重なる弦楽器の音色が、夜の深まりとともに落ち着きを取り戻した人々の語らいを包み込み、磨き上げられた床の上では、幾組もの男女がゆったりと歩を進めている。 麗香は、その光景を眺めながら、静かに息をついた。 かつては誰からも後ろ指を指されぬよう、桐生家の娘として、慎太郎の婚約者として、何一つ過ちを犯さぬようにと気を張り詰めていた。 けれど、今夜は違った。 誰かの顔色を窺うためではなく、自分が話したいと思った相手と話し、その言葉に耳を傾けることができた。 とりわけ、先ほど出会った少女のことが心に残っている。 契りの香が弱いことを母親から案じられ、俯いていた少女が、好きな絵の話になった途端、花が綻ぶように笑ったこと。 あの笑顔を、麗香は忘れたくなかった。「……麗香」 隣から声がした。 顔を上げると、朔がこちらを見ていた。「お疲れか」「いいえ。少し、考え事をしておりました」「そうか」 朔はそれ以上追及せず、麗香の視線の先へ目を向けた。「今夜は、楽しめたか」「はい。とても」「……そうか」「朔様は、いかがでした?」 朔は少し考えて。「普段と変わらん」「まあ。せっかくの夜会ですのに」「必要な挨拶は済ませた」「それだけでは、少し勿体のうございますね」 麗香が笑うと、朔は怪訝そうに眉を寄せた。 やがて曲が終わり、広間に拍手が広がる。 あの夜、この場所から自分を連れ出してくれた人。 今夜は、その人とともに、自分の意思でここへ戻ってきた。 そのことが、何より嬉しかった。◇ 華族会館を辞した頃には、夜もすっかり更けていた。 自動車の窓の外を、帝都の街燈がゆっくりと流れてゆく。昼間の賑わいが嘘のように静まった大通りには、時折
華族会館の大広間は、今宵も眩いばかりの光に満ちていた。 天井から吊るされた幾つもの電燈が磨き上げられた床を照らし、楽団の奏でる優雅な旋律が、色とりどりの衣装を纏った紳士淑女の間を流れてゆく。 香水と花々の匂いが入り混じるその空気は、かつて麗香が幾度となく身を置いてきた社交界のものであり、同時に、もう二度と戻ることはないと思っていた世界のものでもあった。「御影少将。これは、お久しゅうございます」 会場へ入って間もなく、年配の紳士が声をかけてきた。「ご無沙汰しております」 朔が会釈する。「今宵は奥方もご一緒ですか。お噂はかねがね伺っておりますよ」「妻の麗香です」 朔に促され、麗香は優雅に一礼した。「御影麗香でございます。以後、お見知りおきくださいませ」「いやはや、お美しい奥方だ。少将も隅に置けませんな」 紳士は上機嫌に笑い、軍務に関する話題を二言三言交わして去っていった。 それからも、朔へ挨拶に訪れる者は絶えなかった。 もっとも、朔自身は相変わらず愛想がよいとは言い難いが。「御影少将が奥方を伴って夜会へお出ましとは、珍しいこともあるものですな」「妻が出席を望んだので」「ほう。では、奥方に感謝せねばなりませんな」 そんなやり取りが何度か続くうちに、麗香は可笑しくなってしまった。 朔は社交が嫌いなのではない。ただ、必要以上に言葉を飾ることを好まないのだろう。 それでも、麗香が誰かと話している間は決して急かさず、相手の言葉にも静かに耳を傾けている。そのことが、麗香には嬉しかった。◇「御影夫人でいらっしゃいますわね」 朔が軍の知人と話し込んでいる間に、麗香へ声をかけてきたのは、品のよい藤色の訪問着を纏った中年の婦人だった。「はい。御影麗香でございます」 麗香が名乗ると、婦人もにこやかに名乗り、傍らに控えていた若い娘を紹介した。「娘でございます。こうした席にも、少しずつ慣れさせなくてはと思
初夏の陽射しが、御影家の庭に濃い緑の影を落としていた。 枝垂れ桜はとうに花を散らし、今は瑞々しい葉を風に揺らしている。季節が移ろうにつれ、屋敷の中を吹き抜ける風にも少しずつ夏の気配が混じり始め、麗香は朝の涼しいうちに窓を開け放つのが楽しみになっていた。 その日も、午前の用事を済ませて居間へ戻ったところで、志乃が一通の封書を持ってきた。「奥様。こちらをお預かりしております」 「私に、ですか?」 「はい。旦那様から、奥様にも目を通していただくようにと」 封を開けば、中には上質な厚紙に印刷された招待状が収められている。 そこには、華族会館で初夏の慈善夜会を催す旨が、格調高い文面で記されていた。 主催は、華族の夫人たちを中心とした慈善団体である。貧しい家庭の子女への教育支援や、戦争で一家の働き手を失った人々への援助などを目的として、毎年この時季に夜会を開いているのだった。「……華族会館」 口にすると、胸の奥に微かな痛みが走った。 慎太郎と珠緒の裏切りを知った夜。 煌びやかな灯りも、優雅に流れる音楽も、今となっては遠い昔のことのように思える。けれど、あの場所で味わった絶望だけは、そう簡単に忘れられるものではなかった。「奥様?」 志乃が心配そうに顔を覗き込む。「……いいえ。何でもございません」 麗香は小さく首を振った。 あの夜から、随分多くのことが変わった。 桐生家を離れ、御影家へ嫁ぎ、小夜という愛らしい義妹を得た。そして何より、朔という人を知った。 今の自分は、あの夜の自分とは違う。 そう思うと、不思議と心が落ち着いた。「朔様は、こちらへご出席なさるおつもりなのでしょうか」 「旦那様からは、奥様のご意向も伺うようにと申しつかっております」 「私の……」 麗香はもう一度、招待状へ目を落とした。 御影家の当主夫妻として、揃って出席することを求められているのだろう。軍の要職にある朔にとっても、華族たちとの交流は無視できないもののはずだった。 それでも、朔は麗香の意思を確かめようとしている。 そのことが、嬉しかった。「では、朔様がお戻りになってから、ご相談いたします」 「かしこまりました」 志乃が一礼して退室する。 麗香は招待状を卓へ置き、窓の外へ目を向けた。 風が吹いている
翌朝。 朝食を終えた小夜は、女学校へ出かける支度を済ませても、なかなか席を立とうとしなかった。「……兄様」 やがて、小夜が朔を呼んだ。「昨日のお話ですけれど……お断りしてくださいませ」 静かな声だった。 迷いがないわけではないのだろう。それでも、昨夜よりずっとはっきりしていた。「決めたか」「はい」 小夜が頷く。「私、もう少し学びたいです。今の女学校を出たあとも、できることなら、その先へ進んでみたいと思います」「分かった」 朔の返事は、それだけだった。「……それだけですの?」「他に何がある」「もう少し、何か……本当によいのか、とか」「昨夜聞いた」「そうですけれど」 小夜が拍子抜けしたような顔をする。 麗香は思わず微笑んだ。「朔様は、小夜さんのお気持ちがお決まりになれば、それでよかったのでしょう」「ああ」「ほら」「兄様は、こういう時くらい、もう少し妹を励ますお言葉などございませんの?」「自分で決めたのだろう。なら、それでいい」 朔は新聞を開き直す。「先方には俺から丁重に断っておく。お前は学校へ行け」「……はい」 小夜は少しだけ口を尖らせたものの、その顔には安堵が浮かんでいた。◇「今日、学校で聞いてみましたの」 その日の午後。 女学校から帰った小夜は、いつものように麗香と教本を開きながら、嬉しそうに話した。「卒業したあとも学べるところについて、先生に伺ってみました。文学をもっと学べるところも、外国語を学べるところもあるそうです」「まあ。もうお尋ねになったのですね」「はい。でも、お友達には驚かれてしまいました」
御影家へ帰ってきた翌日。 軍務を終えた朔は、夕刻の庁舎を出た。 空にはまだ明るさが残り、西へ傾いた陽が煉瓦造りの建物を赤く染めている。 迎えの自動車へ乗り込む。 窓の外を流れていく帝都の街並みを眺めながら、朔は無意識に右手を握った。 旅先で、滝江の家から出てきた後の。 あの時の麗香の重みを、まだ腕に覚えていた。 ――香は、しなかった。 以前の自分なら、それを意識したはずだった。 麗香は自分の番ではない。 探している女ではない、と。 だが、あの時はそんなことを考えもしなかった。 麗香が自分を頼った。 そして自分は、その麗香を抱き寄せたいと思った。 その「それだけ」が、朔にはひどく大切なことのように思えた。 父と母の間には、誰より強い契りの香と、番という絆があった。 それでも母は、幸せではなかった。 ならば、香がなくとも、自らの意思で誰かへ手を伸ばすことの方が、よほど――。「……」 そこまで考えて、朔は眉間を押さえた。 本当はもう、答えなど出かかっているのかもしれなかった。







