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第5話 冷酷軍閥

Penulis: 板野かな
last update Tanggal publikasi: 2026-09-03 18:00:56

 夜会は、なお華やぎの最中にあった。

 水晶のシャンデリアは幾千もの光を降らせ、円舞曲は絶えることなく大広間を満たし、色とりどりの衣装をまとった華族たちは、春の終わりに咲き誇る花々のように笑みを交わしている。

 その輪の中にありながら、御影みかげ朔さくだけは誰とも言葉を交わそうとはしなかった。

 若き陸軍少将。

 新政府を支える御影家の若き当主。

 戦場では鬼神のごとき采配を振るい、政敵には容赦なく刃を向けることから、帝都では「冷酷軍閥」と囁かれる男である。

 今宵こよい、彼·がこの夜会へ姿を見せた理由もまた、決して社交を楽しむためではなかった。

 御影みかげ家は新興華族である。

 軍功によって家名を興おこした以上、旧華族との結びつきを強めなければ、その地位は盤石とは言えない。

 そのためには婚姻が必要だった。

 家臣たちは皆、今夜こそ朔が伴侶を決めるものと期待している。

 朔自身も、それを拒むつもりはなかった。

 愛などなくとも構わない。

 家のためなら結婚くらい受け入れる。

 そう割り切って、この場へ足を運んだのである。

 しかし――。

 誰一人として、彼が心を動かされる女はいなかった。

 香水を重ねた令嬢。

 香木こうぼくを焚き染めた袖。

 笑みも、言葉も、立ち居振る舞いも非の打ちどころはない。

 それでも、彼女たちから漂う香りは、どこか作られた花のように感じられてならなかった。

 朔は人の顔より先に香りを覚える。

 香りは偽れない。

 怒りも。

 嫉妬も。

 恐怖も。

 欲望も。

 戦場では、それだけを頼りに幾度も生死を分けてきた。

 だからこそ、磨き上げられた笑顔の奥に隠された打算や虚飾が、香りとなって鼻を掠かすめるたび、胸の内だけが静かに冷えていく。

(……違う)

 誰でもいいはずだった。

 それでも、ここには彼が求めるものはなかった。

 いつしか朔は、大広間を離れていた。

 夜風でも浴びようと庭へ出た、その時だった。

 ふと、頭上から絹の裂けるような風音がした。

 見上げると、薄紫の袖が、散りゆく桜とともに夜空を舞っていた。

 人影。

 女だ。

 考えるよりも先に身体が動く。

 地を蹴り、腕を伸ばし、その身体を抱き止める。

 衝撃が腕へ伝わる。

 落下の勢いを殺すように強く抱き寄せると、衣きぬ擦ずれが胸元を掠め、細い肩が小さく震えた。

 折れてしまいそうなほど華奢な身体だった。

 その瞬間、世界から音が消えた。

 春の夜気を裂いて、一筋の香りだけが朔の胸へ流れ込んでくる。

 甘くもなく。

 艶あでやかでもなく。

 朝露を含んだ白椿しろつばきのように澄み切った、静かな香り。

 胸の奥が、不意にざわめいた。

 あの夜、一度だけ出会い、跡形もなく姿を消した女。

 それ以来、どれほど人混みを歩いても、どれほど香りを聞き分けても、二度と巡り会えなかった運命の香。

 腕の中の女から漂う気配は、その面影を思わせるほどによく似ていた。

 だが――。

 朔は抱き留めたまま、白い首筋へ静かに目を落とした。

 もし本当にあの夜の女ならば、そこには自ら刻んだ番つがいの印が残っているはずだった。

 しかし、彼女の細く白い首筋には、印の痕跡は見当たらなかった。

 念のため、指先でそっと確かめる。

 滑らかな肌だけが、静かに指先へ触れた。

(……違うか)

 胸の奥を、小さな落胆が掠める。

 あの夜、自分の理性を奪った女は、まだ見つかっていない。

 運命などというものを信じたことはなかった。

 それでも、あの一夜以来、その香りだけは忘れられずにいる。

 香りだけを頼りに探し続けてきたというのに、また見当違いだったらしい。

 静かな失望を胸へ沈めた、その時だった。

「ひ、人が落ちたぞ……!」

「例の桐生きりゅうの娘だ!」

 誰かの悲鳴が庭へ響き、静寂は一瞬で破られる。

 桐生家――。

 その名に、朔は初めて腕の中の娘へ視線を戻した。

 桐生家といえば、旧華族でも指折りの名門。

 そして社交界では、生まれつき契ちぎりの香かを持たぬ「欠陥令嬢」がいることでも知られていた。

(……この娘が)

 夜会の客たちが次々と庭へ駆け寄り、人垣が幾重にも広がっていく。

 しかし、人々の足は途中で止まった。

 朔の姿を認めたからだ。

 人垣は誰に命じられるでもなく左右へ割れ、庭園には軍の閲兵えっぺいにも似た張り詰めた静寂が落ちた。

 黒の軍服。

 肩章に輝く将官の星。

 胸元へ整然と並ぶ勲章。

 そして、軍に連なる者なら誰もが知る黒銀の家紋。

「あれは……」

「御影みかげ家の……」

「泣く子も黙る御影少将か」

 軍人たちは反射的に姿勢を正し、華族たちは息を呑む。

 帝都で彼の名を知らぬ者はいない。

 戦場では敵軍から鬼と恐れられ、政界では若くして政府中枢へ食い込んだ軍閥の当主。

 その男が、一人の令嬢を抱きかかえて立っている。

 誰も、その意味を理解できなかった。

 ◇ ◇ ◇

 ――温かい。

 それが、麗香れいかが最初に感じたことだった。

 落ちる恐怖も、身体を引き裂くはずだった衝撃も訪れない。

 代わりに包み込んでいたのは、あの夜とどこかよく似た温もりだった。

 麗香はゆっくりと瞼まぶたを開く。

 目の前には、夜のように黒い瞳。

 けれど、その姿を認めた瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。

 あの夜の男性は、深く外套のフードを被っていた。

 月明かりの下で見えたのは、輪郭だけ。

 契りを交わしたその最中にさえ、一度もその素顔をはっきりと見ることはできなかった。

 だから、この人があの夜の彼なのかどうかは分からない。

 それでも。

 微かに漂う沈香じんこうにも似た香り。

 自分を包む腕の温もり。

 胸の奥深くで静かに響く、この人の傍こそ居場所なのだと囁くような、不思議な安堵。

 忘れようとしても忘れられなかった、あの夜の記憶が静かに胸へ蘇ってくる。

(……まさか)

 一瞬だけ、その言葉が胸をよぎる。

 けれど、すぐに麗香は心の中で小さく首を振った。

(そんなはずはない)

 顔も知らない。

 名も知らない。

 あの夜の出来事さえ、夢のように曖昧なのだ。

 ただ、本能だけが、この人へ手を伸ばしたいと囁いている。

 その声へ耳を貸してしまえば、きっとまた同じ過ちを繰り返す。

(駄目……)

 男は怖い。

 信じた婚約者は裏切った。

 名も知らぬ男へ身を委ねた結果、その男も結局は自分を置き去りにした。

 もう二度と、本能のまま誰かを信じてはいけない。

 そう自らへ言い聞かせるように、麗香は反射的にその腕から身を離した。

 その様子を見ていた珠緒が、二階の欄干から悲鳴にも似た声を張り上げる。

「皆様、ご覧の通りですわ!」

 庭中の視線が一斉に珠緒へ集まる。

 その瞳には涙が浮かび、今にも崩れ落ちそうなほど痛ましい表情を浮かべていた。

「お姉様は、生き延びるためなら殿方を誘惑することさえ厭いとわない方なのです!」

 その言葉に、たちまちざわめきが走った。

「やはり……」

「不埒ふらち者との噂は本当だったか」

「だから御影少将へまで……」

 そんな囁きが、春風より早く庭を駆け巡る。

 慎太郎も人垣をかき分けて現れた。

 しかし麗香へ手を差し伸べることはなく、苦しげに目を伏せている。

「麗香……どうして、そこまでして」

 その声音には失望こそあれ、守ろうとする意思はなかった。

 麗香は、その言葉を静かに聞いていた。

 かつては、彼の声一つで胸が満たされた。

 優しく名を呼ばれるだけで、どんな冷たい視線にも耐えてこられた。

 けれど今、その声はどこまでも遠い。

 春風に乗って聞こえる、名も知らぬ誰かの言葉ほどにも、胸へ届かなかった。

(……本当に、もう終わったのですね)

 悲しみより先に、静かな諦めだけが胸へ降り積もっていく。

 やがて、自然に割れた人並みの中を、父、桐生きりゅう和馬かずまがゆっくりと前へ進み出てきた。

 麗香を見つめるその眼差しには、父親の情は一片も残されていない。

 家名を汚した罪人を見る目だった。

「桐生家の名をここまで汚した以上、もはや情けはかけられん」

 春風が吹き抜ける。

 散った桜が足元を流れていく。

 和馬は静かに使用人へ視線を向けた。

「連れて行け」

 背後の使用人たちが動く。

「今夜のうちに処分する」

 麗香は静かに目を伏せた。

 もう抵抗する力も残っていない。

 その時だった。

「……誰が」

 低く、夜気を凍らせるような声が響く。

 桐生の使用人たちの足が止まる。

 麗香を抱き止めた男が、彼女を背へ庇うように一歩前へ出た。

「誰が、俺の女に触れていいと言った?」

 その黒い瞳は、桐生家の者たちだけを静かに見据えていた。

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